ian brown chronology

イアン・ブラウン年代記

Ian George Brown

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1963年
2月20日マンチェスター郊外のウェーリングトンに生まれる。

3〜4歳の頃、後にストーン・ローゼズのギタリストとしてともに時代を築くことになるジョン・スクワイアと、近所の砂場で出会う。ジョンに対する第一印象は、「あっ、こいついい自転車持ってるな」だった。

1980年
ジョン・スクワイアとともにザ・パトロールというバンドを結成し、カレッジの文化祭や教会のギグに出演する。この時イアンはヴォーカルではなく、ベーシストだった。ちなみにこの時のヴォーカル、アンディ・コウセンズは後にザ・ハイの中心的存在に、ドラマーのサイモン・ウォルステンクロフトはこの後ザ・フォールのドラマーになっている。
1982年頃
ジョンとともに次なるバンド、イングリッシュ・ローズを結成する。
1984年
イングリッシュ・ローズを正式にストーン・ローゼズと改名。その際、ドラマーとしてレニが新たに参加。オーディションに現れたレニのドラムスの第一印象は「あっキース・ムーンだ!」だったそうだ!
1985年
マンチェスターのインディ・レーベル、シン・ラインと契約。1st。シングル"Tell Me / So Young"を発表する。
1986年
ストーン・ローゼズにベーシストとしてマニが新たに加入する。
1987年
FMリヴォルバーから2nd。シングル、"Sally Cinnamon"をリリース。そのスウィートで流麗なポップサウンドによって、後のローゼズサウンドの原点ともいうべきシングルになった。
1988年
新進レーベル、シルヴァートーンに移籍、記念すべき3rd.シングル"Elefant Stone"をリリースする。プロデュースはニュー・オーダーのピーター・フックが担当した。
1989年
3月、4th.シングル"Made of Stone"が発表される。
5月、デビュー・アルバム"Stone Roses"が発表される。上シングルともプロデュースはジョン・レッキー担当。
10月、初来日公演を果たす。23日川崎クラブチッタ、24日五反田ゆうぽーと、25日大阪毎日ホール、27日日本青年館。
11月、5th.シングル"What The World Is Waiting For / Fool's Gold"をリリース、ナショナル・チャート第5位にチャート・イン。
1990年
1月30日、かの有名なペンキ事件勃発。ストーン・ローゼズの4人は青、白のペンキ材で武装し、FMリヴォルバー社の事務所を自分たちのファーストアルバムのジャケットのように所構わずペイントした。後に10月の判決でメンバーはそれぞれ3.000ポンドの罰金を言い渡されている。この事件のそもそもの原因は、FMリヴォルバー社がシングル"Sally Cinnamon"の成功に味を占めて、バンド側に無断でこのプロモーション・ビデオを作成、販売したことにあった。
5月27日、リヴァプール沖合いの埋め立て地、スパイク・アイランドにて3万人を動員するギグを敢行。10代のファン1人が心臓発作、27人が入院し、400人以上が医療施設の厄介になるという大変な騒ぎだった。
7月、6th.シングル"One Love"をリリース。ナショナル・チャート第2位に。インタビューはおろかライブやレコーディングの声も聞こえてこない、沈黙の時が始まる。
1991年
5月、3月以来のレコード会社移籍をめぐる争いから、シルヴァートーンと本格的裁判へ発展した。が、20日の結審でバンド側の全面勝訴となり、ストーン・ローゼズはゲフィンと新たに400万ドルの契約を結ぶ。
1992〜1994年
果たして、沈黙の期間。さまざまな噂、憶測が乱れ飛ぶ中、イアンは同棲したり子どもを作ったりしていた。
1994年
12月、とうとう待ちに待ったニュー・アルバム"Second Coming"がゲフィンからリリースされる。5年と7カ月の沈黙だった。ファーストカット・シングルは"Love Spreads" 。
1995年
3月、ストーン・ローゼズから金看板のドラマー・レニの脱退が報じられる。ツアーにはロビー・マディックスが参加。
6月、ジョン・スクワイアのオートバイ事故により来日公演延期。
9月、2度目の来日公演を果たす。
11月、全国17カ所のブリティッシュ・ツアーを敢行。チケットはどれも即日ソールド・アウト。
12月、ウェンブリー・アリーナで年末ライブ。第2期ローゼズの蜜月ともいうべきギグだった。
この年、イアンは2人目の子どもをもうけている。
1996年
3月、ギタリスト、ジョン・スクワイアがストーン・ローゼズから突然の脱退。新しいギタリスト、アジズ・イブラヒムが加入する。
9月、レディング・フェスティバルにおけるイアンのヴォーカルがいつも以上に酷評される。

10月、ベーシスト、マニがプライマル・スクリームに加入すべく脱退。事実上、このときにストーン・ローゼズはその歴史の幕を引いた。ゲフィンはイアンのソロ契約について、音を聞いてからでないと何ともいえない、とコメントしている。
1997年
ジョン・スクワイアのSeahorses、マニのPrimal Scream での活躍を後目に、イアンとレニは沈黙を守る。
9月、イアン・ブラウンが英ポリドールと契約を交わしたというニュースが流れる。かたわら、レニは飲酒運転で警官に暴言を吐き、一週間の実刑判決を受けていた。
10月、イアン・ブラウンのソロ・デビューが正式に報じられる。
1998年
1月、1st.シングル"My Star"がリリースされる。14日、ファースト・ソロ・アルバム"Unfinished Monkey Business" 日本先行発売。ふーっ!


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